世紀を超えた回答-宮廻正明と日本文化の構造

今回、ヨーロッパにおける宮廻正明巡回展を企画し、ヨーロッパにこの画家の世界を紹介する最も大きな意味は近代日本において取り残されていた問いかけを、宮廻正明の仕事を通じて、その問題提起の原点であるヨーロッパにおいて発信することにあると思っている。というのも、一つは宮廻の持つ複雑で多様な技術が印象派以来の色彩や遠近法の違いのみにとらわれた一元的な日本美術の理解を多面的に広げるものであるということと、またもう一つは画像表現と人間的感動の関係性を構造的に解明しようとする彼の科学的精神が19世紀以来西洋から輸入された芸術という概念が日本美術にもたらした変化や革新を証明するものであるということだ。つまり、宮廻の作品世界が今存在している価値は日本と西洋における二つの日本美術の理解に一世紀ぶりに革新を与えるところにある、と言ってよいだろう。その点において、今回西洋芸術概念の成立において大きな役割を果たしたフィレンツェという都市の中でその象徴の一つであるピッティ美術館での開催を迎えることは宮迫のみならず日本の美術関係者全員にとって大変意義深いことであると思う。

日本的なものとは何か?
その命題は17世紀から19世紀まで300年近くの間、鎖国をして過ごした我が国おいて、考えるべくもなく自然と成立しているかのように見えたものであった。すべてが固有の基盤の上で自立的に存在していて純粋に培養されているような錯覚。古代や中世において「和風」、「唐風」というように文化の純粋性と混在性の中でアイデンティティの獲得に相克していた時代を忘れてでもいるかのように、江戸時代の人々は「和」に吸収された様々な異なった文化表現を一つの個体としてとらえ純粋化していった。アイデンティティという概念的な確立の必要性は薄れ、表現の技術的進化と安定した政治状況の下で拡大し続ける文化支持基盤に対する質を維持しながらも広範に供給できるシステムの進化と確立にいそしんでいた。その象徴が浮世絵という不特定多数の大衆を対象とする美術メディアだったその開発の基盤となるのは現在の情報化社会がそうであるように認識において共通の理解が存在するという前提が必要だからである。

閉じられた価値観の中で文化は進化する。そのような幻想を打ち砕いたのが、日本文化が海外において初めて独特な表現と技術を持っていることが高く評価された19世紀ヨーロッパに起こったジャポニスムであったことは疑いがなく、西洋から個別性を指摘されたその時から私たちの前には、そのように評価される日本文化とは何か、その固有性とは何か?という命題が突き付きつけられることとなった。
19世紀前衛運動の流れの中でのヨーロッパにおける芸術革新運動の最も大きな刺激となったジャポニスムというムーヴメントにおける日本美術の工芸や表現手法や制作手段、技術の評価対象とはいったい何なのか?私たちは1世紀以上もの間、その問いかけに自問自答し、その答えを保留してきた。いや、むしろ答えられなかった、といったほうが正しいかもしれない。ジャポニスムはフランスにおいて印象派を生み、その後の前衛芸術運動を通じて20世紀現代芸術の誕生を促したと言われている。


 

浮世絵をはじめとした日本の美的表現が色彩や遠近法そして簡潔な線描において西洋のアカデミズムとは異なった文法を持っていたことが、そこからの脱却を目指す芸術家たちのヒントになったことはモネやゴッホの作品を見れば明らかであるし、イタリアやドイツにおいて最も完成された現代デザインの分野においてもその痕跡を見ることができる。
しかしながら、19世紀以前の伝統美術や工芸作品はともかく1900年のパリ万博を頂点とする当時の美的表現におけるヨーロッパと日本の文化におけるインタラクティヴな関係とは裏腹にその後の20世紀美術史を俯瞰するとき、藤田嗣治や具体美術などいくつかの例外はあるものの、印象派による日本的視点の近代化について、日本絵画の伝統的な文脈からの明確な回答が出されていなかったのは残念なことである。

1995年、私はベネチアビエンナーレ日本館コミッショナーとして、「数寄」という展覧会を企画した。それは「文化の多様性」という時代の視点の変化を踏まえながら、日本で16世紀に完成された「侘茶」のキーワードである「数寄」という視点から、西洋的手法による絵画、伝統的手法による絵画、3Dコンピューターグラフィックスなどを網羅し一つの固定的視点のもとに紹介するというものであった。同じ文化に存在する表現の多様性、そのネットワーク構造こそ日本的な感性に裏付けられているものである、と考えたからである。

結果、多文化時代を迎えようとする海外では高く評価されたものの、日本では激しく非難されることとなった。なぜなら、当時の日本、もしくは明治期以来の日本おいては「芸術」とは「西洋的なもの」であったからである。芸術における鎖国は現代まで続いていた、と言っても過言ではない。そして、明治期以降の国家的支配概念が西洋的近代主義であった以上過去は否定されるべきものであったことはすべての分野において共通した状況であった。皮肉なことは、日本が300年間持続する伝統から決別しようとする、まさにその時にヨーロッパにおけるジャポニスムが起こった、ということである。そして、他者に対して開かれた構造を持っていた日本文化はそれを否定することでその扉を逆に閉ざしたのである。そして、私たちは西洋において評価された日本的表現の独自性を見つめ直し、構造的理解に進むことをしなかったとともに、西洋においてもその表現を支える技法、技術、素材、そして何よりも美学を体系的に紹介することもなかった。その証明はジャポニスム期におけるルイ・ゴンスの「日本美術」やエドモン・ド・ゴンクールの「北斎」、「歌麿」以上の日本美術批評がその後生まれなかったことを見ても明らかである。

しかし今回、日本絵画の正当な継承者であることを誰もが認め、そしてその伝統の回復と革新をリードする指導者でもある画家 宮廻正明氏を両者の交流の文化的頂点を実現、展開したヨーロッパで紹介する機会を持つことはジャポニスム以来のヨーロッパからのその現代化の問いかけへの明確な回答を行うものであるとともに、日本美術の国際的視点に立った可能性についての彼らの指摘が正しかったことを証明することである、と思っている。
宮廻の絵画は光と空間の魔術とさえいえるもので、その中にセザンヌのように普遍的な構造概念を宿したものでもある。そしてその世界全体は純粋に哲学化された印象の明確な分析によって成立するとともに、日本文化の方法論からでも西洋の芸術概念に到達することが可能なことを示しており、同時にその弁証法的証明をなすもので、「純粋印象主義」と私が呼ぶところのものである。
宮廻正明を日本画家として稀有な存在としているもの、それは彼の固有のキャリアによるところも多いと思う。自身は日本において古代信仰の神が宿ると言い伝えられている出雲の地に生れた。風土においては日本の原点を象徴する景観を有する地方であるが、同時に日本において古来大陸文化との交流拠点であった日本海沿岸に属している。しかし、彼が日本画を志すようになった経緯もその作品世界に重要な陰影を与えることになる。


 

日本における美術、音楽における教育の最高峰が東京藝術大学であることは周知のことであるが、彼が最初に志したのはグラフィックデザインであった。卒業後においても、彼が作品制作にすぐ向かう事はなかった。彼が向かったのは日本画における文化財の保存修復。そこで彼は師となる偉大な日本画家平山郁夫と出会うことになる。そして、彼の勧めで絵画の創造を開始するのである。現代の芸術批評においては作家の経験の集積という視点が軽視される傾向にあり、結果である作品のみの分析に偏る傾向があるが、彼の画業にとって、その経験の集合は重要であると思う。つまり、画面の図形的把握と色彩の合理的探求、表現技術の歴史的探求による継承と革新の時系列的理解と多様な技術の習得、それらの基盤として存在する風景と風土の記憶。結果、彼の中の経験の集合それ自体が日本文化自体を形象化するものとなり、それを技術的にも理論的にも説明するに足る表現となって行く。「螺遊」と彼が名づける基本的な図形への追跡は普遍的な概念への探求以外の何ものでもない。異なる要素を一体化しようとする志向とそれをネットワークする概念と美学。それこそ日本文化の本質的構造であり、日本人が近代において置き忘れてきたものである。「水花火」にしても「協奏曲」、「天水」にしても、一見日本的な風景であるが、情緒的に表現するのではなく、その分析を色彩という光学的、物理的存在を集積の密度に当てはめ形態の変化と一致させるという画像の合理的完成を意図しているものでもある。

プラトンが言うように、理性というものが無数に伸びる感性因子の配分を意味するものならば、彼は私たちにとって最も情緒的に見える対象の中に理性的構造を実現しようとしているのではないだろうか。そしてその科学的精神こそ、実は鎖国前16世紀の大航海時代の交流において西洋が日本にもたらしたものであり、本来日本人の感性の中に宿っていた「数寄」的集合への志向を裏付けるはずのものだった。しかし、その具体化の前に日本は海外との関係を断ち、独自の表現的進化をはかり、その結果、300年後その西洋において注目を浴びることとなる。ジャポニスムにおいて、西洋が着目し、評価した日本文化の様々な表現と多様性は実は西洋的科学的精神によって加速化されていた、と思うのは私だけの思い込みであろうか?
そうではないとすれば、モネやスーラやゴッホが、その表現に適用し西洋表現的完成を見ることができたであろうか?同じく、ルイ・ゴンスやエドモン・ド・ゴンクール、ヴィットリオ・ピーカなどの体系的理解者が出現しただろうか?
もし、両者に指摘するような共通する要素がなかったとすればそれはただの日本趣味にしかならなかったであろう、と私は思うのである。他の多くの関連した造形運動、例えば、近代デザインの先駆けとなったアール・ヌーボーや、アーツ・アンド・クラフト、ユーゲント・シュティール、ウィーン分離派などにおける日本美術の理解にも同じことが言えるだろう。

ネジ山が異なるネジが決して重ならないように、共通する「理」なくして影響関係は起こらない。それは逆方向における日本における西洋芸術の影響も同様である。しかし、他者を認識すべくもない当時において、そのような理解は存在するべくもなく、ジャポニスムへの日本からの返答はなされず、その表現を支える技術的背景や素材と表現の関連性に関しての詳細な解説を伴う具体例をあげられることはなかった。作品体験だけで、また油絵の材料と技法だけで日本画に共通する世界を再現したスーラなどの作品は奇跡としか言いようがない。
結論から言えば、宮廻正明の作品とそれを支える彼の概念的背景は長年置き去りにされていた西洋への回答に相当するものである。細かく分析された色彩とその微妙なグラデーションに、モチーフ間の形態の融合の中に朦朧としながらも現実感を生む理由は鉱物原料を動物性油脂で定着される日本画独特の彩色と画面の裏から彩色するという裏彩色という技法を用いるからであるが、その技術や材料自体も古来私たちが独自の表現を確立するために実行したように西域やアジアから輸入し、その多くが日本だけにしか存続していない技術を選別し、結び合わせて実現されている。また、一様に見える素材自体にも厳しい宮廻の選別は行われ、いたずらに伝統的な成分に固執せず表現を成立させるための革新を意識している。


 

モチーフにおいても同じである。師平山郁夫がそうであるようにいたずらに伝統的なモチーフに固執することなく時代に存在するすべて、そして、世界にあるすべてを対象として、材料と技法と表現の一体性の公式を証明しようとするのである。それはもはや既存の技術を超えて彼が中心となって開発した光学的画像解析技術やデジタルプリンティングアプリケーションのように過去を踏まえた未来へも向かっている。そして、行きついたのが図像の根本原理の中に螺旋構造を認め適用して行くという方法である。すなわち、印象という人間の知覚認識がいかに合理的な基盤と背景を持つものなのか、そしてそれを解析することが芸術家の使命であるかのように宮廻は作品と自らの技術を生み出していく。それは時として表現の評価にのみ依存してしまいがちな印象派の再評価を生みだすものであり、その指摘が根本的な問題に触れることであるという証明であり、その原点となった日本美術からの世紀を超えた回答であると私は思うのである。

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