「日本美術館構想 -Making a proposal for the ‘SUPER’ MUSEUM」

文化基地としての美術館のあり方

「美術館とは美術作品の保管庫で終るべきものではない。未来の芸術を生み出すために総合的なセンターとして昨日すべきものである。今や、それを映像に関する情報基地と四でもさしさわりはあるまい。日本美術館構想はそうした美術館を未だにこの国が持ち得ないことを国家の少ない文化予算のせいにするのはそろそろやめて、21世紀へ向けてのプロジェクトを今、考え始めようという提案である」
 今から5年前「ブルータス」誌に日本美術館構想を発表した時に私はこんな書き出しで話し始めた。
 時は美術館建築の革命をひき起こしたポンピドー・センターの会館から10年の月日が過ぎ、次なるショックとなったルーブル美術館の改造計画が着々と進行中という時代だった。しかし、今のようなアート・ブームもメセン活動の差異はますます広がっていくような危機感を私は覚えていた。
 というのも、留学、そしてフランス芸術活動協会(AFA)での仕事や美術評論活動を通して、ヨーロッパ、特にフランスの美術状況にどっぷりとつかりその美術環境と行政をつぶさに見てきた者にとって、日本の欧米の環境と未来に向けた支店の差はどうしようもなく大きく、その整備と変更こそが急務と思われたからである。なぜなら、アーティストや状況の不在を嘆く以前に、行われなければならないことがあまりにも多いと映ったからである。

彼我における最も顕著な違いは現代文化における行政プランとその視点の欠如ではないだろうか。例えば、ポンピドー・センターの会館やルーブル美術館の改造そして最近のオルセー駅を改装したオルセー19世紀美術館の開館は、単に美術館行政だけの問題ではなく、都市計画や国家の未来に対する明確なビジョンに基づいている。

 

ルーブルのピラミッドは新凱旋門、デファンス新市街そしてセルジー・ポントワーズへと連なる首都圏再整備計画へと連なり、その実現に当たってはI.M.ペイ、ダニ・カラバンを初め世界中から時代に時代を代表するクリエーターが集められている。これは行政というよりも政策とさえ見なされる行為という他はない。なぜなら、このようなプランの背景にあるものは文化をただ鑑賞や娯楽の対象とするような考えではなく、もっと積極的に国の「文化力」とでもよぶような位置づけを行うビジョンに違いないからである。
 「文化力」とは、「軍事力」「経済力」に並ぶ外苑として私が考えついた造語にすぎないが、最近の国際的な情勢の変化を見つめていると、今後最も注目しなければならない分野ではないだろうか。つまり、冷戦の終結、ソ連邦の消滅などの事件を経て国際政治がこれまでとは違って、軍事力や経済力を背景にした対決や威圧から強調や連帯、ひいては連合に移行することは確実なことである。湾岸戦争や、現在のガットにおける交渉、そして日米の経済摩擦をみるにつけても、その両者において突出することはさまざまな問題と義務を抱え込むことになるのは明白で、それはこれからの国際関係の基本的な趨勢になるに違いない。
 もはや単純な拡大思想では国家や民族としてのアイデンティティは認知されない時代になった、というより他にはない。そのような時代にあって今後、実質的にも、概念的にも国境というものがもし存続し続けるならば、それは文化力とその及ぶ範囲という限定にならざるをえないのはないだろうか。
 かつての都市を構築する基本型にあったポリシーが「城砦」と「市場」の建築や配備にあったとするならば、このボーダレスの時代にあっては「文化の流通」以外にはない、というのが私の「美術館構想」における基本的な考え方である。

 

 パリの再整備計画も、ケルンやベルリンにおける美術館中心の同様なプロジェクトも、ヨーロッパがとてつもなく長い戦後を経てEC統合という歴史の転換期にあたって生み出そうとする新たな局面の前兆と見た方が良いようだ。ソ連邦に代わる「独立国家共同体」における最終的な国境線は、宗教を含んだ文化の境界線とそれほどずれることはないだろう。そして究極の情報社会における最後の選別手段もまた、そこに依存する他はないに違いない。「言語」よりも遙かに多い情報量を伝達できる「映像」はそのような時代の主役になるであろうし、だからこそ映像の実験場としてのアートは今までにない重要性を担うことになるのである。
 もう一度「日本美術館構想」をここで展開するにあたってすべての現代美術館関係者諸兄問いたいことがある。それは20世紀芸術が実現した最も大きな収穫は何だったのか、ということである。私はたとえそこにピカソ的命題、デュシャン的命題が挙げられるとしても、その第一に「参加する芸術」を実現したことを取り上げたいのである。リトアニア共和国のランズベルギス最高会議議長がアーティストの国際的連帯を唱えた「フルクサス」のメンバーだったことは象徴的な事実だが、日本にある諸兄の美術館は歴史の渦の中に参加しているのだろうか。もしそうでないならば、文化基地としての美術館のあり方をもう一度問い直して欲しいのである。

新しい背景を持つ美術館は「新しい時代」をも表現する

 海外の美術館を訪れてうらやましく感じた美術ファンは多いと思う。設備や企画のスケールに感嘆するはかりでなく、環境の一部として都市に溶け込んでいることに驚きを覚えたに違いない。そんな環境の中で美術館に行くという行為が日常化し、レクリエーションや習慣とかなり近い表情を持っている。片や日本では「親しむ」という感覚には程遠く、敷居の高い印象を与える美術館がほとんどである。80年代に一種の流行のように建設された地方美術館によく見られるように、建物にはお金をかけた形跡はあるが中身は似たりよったりの没個性的なものも多い。ある建築家は「美術館とは建物ではなく、学芸員の頭野中にあるものだ」と語っているが、日本においては建物をアイデンティティにしている美術館がほとんどではないだろうか。
 その理由の一つに、日本では美術館を設立する背景が違うということが挙げられるだろう。例えばヨーロッパは美術館とは近代の象徴である。ながらく宗教と王権の所有物であった美術を近代革命により社会の共有財産として認知させた証が美術館だからだ。ルーブルを初めその多くの宮殿を改造したものであることは示唆的な事実であるし、ミュンヘンのピナコテクやベルリンの美術館島などは、王が建設したものであっても市民の目を意識するような王政に質的変換をはたしていたことの証明となるものだろう。だから、美術館は、ヨーロッパの人々にとっては、近代社会の通念的原則である「パブリック」という概念の最も印象的な具現体であるわけだ。

 

 日本では明治以後、近代主義の輸入にともなって、「美術館」も到来したが、近代革命とは呼びがたい明治の体制下では輸入された西洋文明と同様、「官制」の色濃いものだった。
 アメリカにおいても、いやアメリカにおいてこそ美術館の民主制が貫かれている。王権がもともと存在しなかったこの国ではもっともなことだが、アメリカ最初の大規模な美術館であるワシントンのナショナル・ギャラリーを設立したのは、大英美術館に負けないような美術館をつくろうと集まった実業家メロンを中心とする各界の名士たちだった。
 そのアメリカ型の美術館の中から20世紀の典型的な美術館形式である財団運営の美術館が登場してくる。つまり、資産家や企業が供出した基金に依る財団が設立し、運営する美術館だ。それは、日本と違って財団の設立や寄付によって極端に優遇される税制に背景がある、とみることもできるが、社会道徳の差も考慮に入れるべきであろう。
 新しい背景を持つ美術館は新しい時代をも表現する。その代表的な例がニューヨークにあるグッゲンハイム美術館である。大富豪ソロモン・R・グッゲンハイムが1920年代から集めた20世紀前衛美術のコレクションを中心に1959年に会館したこの美術館は、今世紀最大の建築家フランク・ロイド・ライトが設計したことで大きな意味をもつことになった。内容(コレクション)と器(建築)が見事に統一されたコンセプトは20世紀美術史のモニュメントとつくり上げたのである。

 

 ライトは狭い敷地を有効に使って、都市型美術館の典型を実現した。スパイラル状の展示スペースは(作品との)視点と距離に問題がるにしても美術館空間の概念革命と呼べるものだし、何よりも展示されている「非対象美術」の見事な表現でもあった。そして、劇場、ミュージアム・ショップを付属し、周辺との有意義な関係を視覚的に達成したこの美術館は美術館建築に一つの方向を与えたといえるものである。現在、グッゲンハイム美術館そのコレクションをさらに有効に活用するために各国との提携によって海外にいくつかの分館を準備中である。美術館の有効活用の規範となるに違いない。
 コンセプトの統一と選択の自由に利点がる財団型美術館は20世紀後半の主流となっているが、特定地域の出資者が協力して財団を設立し、地方自治体と協力して美術館を開館するMOCA(ロスアンゼルス現代美術館)のような形態も生まれている。また、ニューヨークのMOMA(ニューヨーク市立近代美術館)のように公立でありながら独自にスポンサーと提携するケースも増えてくることだろう。また公立においてもパリのポンピドー・センターのようにあらゆる映像メディアを美術館と同居させるという革命的なものが生まれている。そして美術館の代名詞のようなルーブルもまたその革新の嵐から免れることはできなかった。

“スーパー・ミュージアム”の条件

美術館は今確実に変化し始めている。もはや絵や彫刻を見る場所に留まらず、テクノロジーや政治・経済の交差する地点になっているのである。そしてそれは都市のもう一つの中核とさえ見なされるものへと変わりつつある。世界を代表する都市「東京」に必要なのは保守的なオペラ座などではなく、未来的志向に立脚した映像基地的美術館なのではないだろうか。
 21世紀型美術館を構想するにあたって、6年前に選んだ仮想建設予定地は東京の汐留駅跡地だった。そして今でもその考えに変わりはない。それはこの土地が未来の美術館像に必要ないくつかの条件を満たしているからである。それはポンピドー・センター以後の美術館において提示された問題を踏襲し、超えるためのものである。
 それでは21世紀スーパー・ミュージアムに必要な条件を提示することにしよう。
 第一に大都市の中心に位置すること。美術館の活動に、より社会的なインパクトを与え、情報の即時的な発信と吸収という基本的なサイクルを成立させるためには、日本では現在東京において他には考えられない。そして、より多くの人々にその情報は還元されなければならないことと、そのためのアクセスの容易さは必要な要素となる。汐留はその点で理理想的である。
 第二に多機能であること。美術館は美術作品の保管庫という認識はもはや過去のものだ。未来の美術館は自らのコレクションを豊富なビジュアル・ソフトとして把握し、その総合体としてのダイナミズムを社会にフィード・バックしていくセンターとならなくてはならない。
 情報通信網が高速で組織される近未来に、同一時間内で、アキシマムな情報を人間の脳にインプットさせることができる表現媒体は「映像」において他にはない。21世紀には宇宙空間でのネットワークが実現していることだろう。そのような時代にあっては、一画面にキガ単位以上の情報が集積させている映像が必要とされるには違いない。また超高速コミュニケーション・ゾーン内ではその受信から送信へのプロセスも極限までスピード・アップされていなければならない。

 

 そのためには「言語」という人間の学習機能にたよらざるをえないメディアよりも、感覚に訴える「映像」がはるかに有効である。そう考えればアーティストとはその開発と可能性の研究のためにプロフェッショナツとして未来社会に欠くことのできない存在であるし、彼らの仕事のデータおよびソフト・バンクである未来の美術館はシンク・タンク的な役割を担うことになるはずだ。マッキントッシュ・コンピュータやクォンテル・ペイントボックスの開発にあたって画家たちが果たした役割を思い起して欲しい。時代は文化の成長の速度を上回っているのである。
 だから、未来の美術館の表現機能はあらゆる可能性をフォローするためにも多彩でなくてはならない。劇場やハイビジョン装置、スーパー・コンピュータ・システムなどはいうにおよばず、衛生テレビ局や光通信によるオン・ラインCGの発信基地、印刷所、LDやCGの制作工房、各種ワークショップなどを内蔵してアーティストと彼らをサポートするエンジニアのニーズに応えるべきであろう。オブジェと並んで今世紀最大のアートにおける発明であった「ビデオ・アート」の開発にあたって、ナム・ジュン・パイクをサポートし続けた日本のエンジニアの力があったことは、その良き実例である。この点については日本は大きなアドバンテージを持つことができるだろう。
 第三にポンピドー前広場のように公共のパフォーマンス・スペースを持つことである。ロー・テクとハイ・テクの純粋な影響関係を阻害してはならない。才能とは人知れぬ偶然と運命が支配している。いかに巧妙に組織されようと人間にその予測は不可能なのだ。才能の突然の出現に対応するたには完全なフリー・スペースは不可欠である。日本の貧しい美術教育を考えればそれは特に切実な問題である。同様に日本全体を広域にカバーするために地方美術館とのネットワーク化を図り、才能の発掘に全力を注がなければならない。

 

 何年も前、「電通報」において美術館のハイビジョンによるネットワークを提案したことがある。その後、彼らのコレクションのハイビジョンによるデータ・バンク化が進められているが私の真意はそういうところにはなかった。リアル・タイム・ネットワークのないメディアなど無用の長物である。私がイメージしていたのはそのネットワークによる展覧会の同時開催、映像データのオン・ライン化、プロジェクト・シミュレーションの簡易化なのである。これからのアートはその関係者の想像能力を逸脱しなければならない。人的ネットワーク潜在能力を開発するためにこの日本美術館は、都市の中心になければならない。
 第四に革命的外観を持つことが挙げられる。ポンピドーを設計したR.ピアノに、F.L.ライトほどの才能があるかどうかはともかくあの工場的なデザインとフレキシブルな空間処理は確かに新しい時代の到来を感じさせた。やはり、美術館は「学芸員の頭の中にあるもの」ではない。アーティストと大衆の接点にあるものなのだ。時代を変えるためには大衆の認識に刺激を与えなければならない。学芸員さえもその大衆の一人なのだから、そのためには"過激"な建築とグラフィックが有効である。そしてどちらも大衆との接点においては最も進んだアート・メディアなのである。
 現在頻繁に見られる"張子の虎"的美術館建築は兄用とのアンバランスがその原因である。目的のベクトルが同一方向を向いているならば建築物そのもののラディカルさに制限が不要であることはライトとピアノが示してくれた。
 このような条件をシミュレーションして僕たちは数日間ヘリコプターを使って東京をくまなく見つめた後、汐留が最適の地であることを確信したのである。

次なる世代のために今、できることは何か・・・

 現在、日本には約2000に上る数の美術館があり、情勢もその数が増え続けていることは御存知の通りだ。そしてこの2000という数は、すでにフランスを上回った数なのである。その数に驕るのではなく、もう一度、誰が、何を求めてそうした美術館を訪れているのか、ということを考え直す時期にきているのではないだろうか。
 私が提案する美術館とは我が国の既存の美術館を全く否定するものではない。ただお、もうMOMAやポンピドー・センターにうらやましさを感じなくていいような美術館、つまりこの国とその思想を代表する新しい文化基地としての美術館が欲しい、ということだ。言い換えれば、私たちの子供やその子たち、彼らの世代に必要なものを今準備しようという考えなのである。それゆえにこの美術館は映像というメディアにおいてこの国とその未来を反映させるモニュメントにならなければ意味がない。テクノロジーという意味では日本にしか可能性のない美術館なのである。
 ダ・ヴィンチが絵画のことを社会の鏡、と呼んだことがあるが、映像基地へと変化しつうある美術館こそ、その役割を持つことが今求められているのである。すべての世代ガディズニー・ランドに行くように映画館に行くよう足を運び、すべての人がアートとテクノロジーの助けを借りて文化と文明の未来と歴史に参加する、「日本美術館」とはそのような行為を日常化するための新しいメディアなのだ。日常性の中で語られてこそ文化となりうるのであるし、そうなって初めて「文化力」はミサイルよりはるかに協力でポジティブな核抑止力となる。
 この巨大なプロジェクトを実現するために、5年前二人のアーティストにシミュレーションとデザインを依頼した。アーティストの崔在銀と建築家のエドワード鈴木である。彼らはこの構想を聞くと美術館を地価に「格納」し地上部分を公演とし、劇場と研究所を配置するという素晴らしいアイディアを考えてくれた。そして、エドワードの指導の下に僕たちはそれをCGによって映像化し(島精機とNHKのスタッフという最高のメンバーが協力してくれた)、構造と費用概算およびコレクションの概要までも準備した。
 5年後未だにこのような美術館は現れていない。しかしながら、その必要性においては何ら変化はないに違いない。
 今回「SCAPE21」においてこのプロジェクトを再び紹介するにあたり、その後の状況を踏まえてリニューアルを施しながら、更なるスタッフの協力を得て、より具体的なプロジェクトとして再提案することにした。次号では建築と構造における概要を紹介しようと思う。
(SCAPE21 1992-2月号)

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