「茶の湯」と「都市計画」を結び付ける、思えば、奇抜な発想をしたものである。しかし、それはまた、偶然思いついたものではなく、長い作業のプロセスを通して、朝露が窓べにたまっていくように、茶筌の先で無数の泡が生まれていくように、思考の片隅で静かに、一滴づつ、育まれたものである。
「茶美会・然」を企画・構成した際、会場プランについて、一つの設定をした。それは「六っつの茶室を包含する一つの巨大な茶空間」という視点である。それは時間的、空間的特性を異にする茶室群を、見る者の思考の中で同一線上に配置するためには、個々の建築物から離れたマクロ的視点が必要だ、と考えたからである。黒川雅之氏によってデザインされた空間はその視点を見事に実現したものだったが、もともと、このようなコンセプトは、新しいものではなく、利休が考案した「数寄屋」の概念の中にすでに語り尽くされている。
しかし「然」の空間を前にして改めて痛感したことは、「数寄屋」がもつ許容度であり、包容力だった。「自由」という表現に短絡に置き換えてよいのかどうか分からないが、偶発的な邂逅がおこす自由な集散や分裂の総体を美的に統一する、「バウハウス」さえ超越する「編集」作業的建築作法に改めて驚かされたのである。そして、時空的に近代さえ一個のエレメント、もしくは「記憶」として超越し、包含してしまう利休の発想は、脱近代の象徴ともなった「多様性」という名の混乱を抱える現代にこそ有効ではないか、と考えるようになった。
ただ茶を飲むために、その空間を包む建築にさえ独創性を追及する。一枚のムシロの上でも可能な行為、そしてそれを理想とする「わび茶」の中でそこまで造形にこだわり、執着する利休の目的は一体なんだったのだろう。そして、その「茶」の意味は?
そんな疑問を抱えながら利休の「数寄屋」に佇むと、縁取りをされた無形の空間から蜃気楼のように一つの仮設が湧いてくる。それは、「配置」という実験についての可能性である。
茶道具や軸、花に与えられた完全な自由。その幾つもの「自由」が共存し、しかも一定の緊張感の中で互いに連携する。それは、まるで私たちを包む自然そのものである。「数寄屋」は「都市」という人工環境の中で人工的に「自然」を生み出す方法なのではないだろうか。そのためにここでは造形的な統一を決して求めない、その反対に、採用される異なったモチーフやディテールは個々に強烈な自己主張を展開する。結果、統一的な様式は崩壊し、各部分の個性は残しながらも全体的には完全な「無」が形成されるのである。それは決して、力ない「虚無」ではなく、強烈な個性の充満に支えれる建設的な「無」なのだ。
この「無」という意識的な緊張をもつ自然の中で、亭主はその内容を選択し、それぞれの関連を探りながら配置する。その行為はライプニッツの言う自然界の「予定調和」を証明し、現実化するものなのである。
「京都未来空間美術館・数寄の都」は利休という思想家が残した空間概念を都市の再生と創生に適用するためのプログラムである。
今、人間が造った最大の人工環境である「都市」は統一的な様式を求めるモダニズムの中でずたずたに分裂されてしまっている。それは他者の様式を認めず、その消去に専念するという、その近代的作法の過程で「都市」のさまざまな「記憶」や積み重ねられた機能が中断されてしまっているからである。「都市」という名の小自然の中で構築された「配置」は、もはや、その痕跡さえも不確かな状況にあえいでいるのだ。
日本の都市も例外ではない。伝統的な美学と都市計画によって構築されている中心部と各建築物の機能を最優先とし、まとまりのない、醜悪で漠然とした集合体を構成している周辺部との景観的、また機能的な落差に、その問題は明確に現われている。人間が自己を取り巻く環境に「美」をもとめる存在とするならば、現在の都市環境は、その「生」すら阻害するものとなっているのである。
日本でも文化施設の整備やパブリック・アートの問題がようやく実行される段階にきているが、私たちが早急に手掛けなければならないのは、何よりも「記憶」というディテールと本来の「機能」を消失した都市構造の文化的再配置であり、乱立する部分の連携による美的な再統合なのである。
我が国の都市文化の原点、京都も例外ではない。中心部はともかく周辺との境界線は近代主義の生み出した無個性な個別主義と概念の欠落に犯されてしまっている。
「数寄の都」は、日本の都市の象徴ともいえる京都を舞台にした、「近代化された」都市が一様に抱える問題の解決への試みである。「数寄屋」という異なった様式に内包された「時間」と「空間」の「差異」を超越する建築概念を、都市構成に適用し、自由で、美的な統一感をもつ都市の再生と発展の可能性をさぐる、それは「二畳台目」という最も小さなユニットで語られた、人工自然の法則を、数百年の時を経て、それを育んだ都に捧げる賛歌以外の何ものでもない。 「茶の湯」と「都市計画」を結び付ける、思えば、奇抜な発想をしたものである。しかし、それはまた、偶然思いついたものではなく、長い作業のプロセスを通して、朝露が窓べにたまっていくように、茶筌の先で無数の泡が生まれていくように、思考の片隅で静かに、一滴づつ、育まれたものである。
「茶美会・然」を企画・構成した際、会場プランについて、一つの設定をした。それは「六っつの茶室を包含する一つの巨大な茶空間」という視点である。それは時間的、空間的特性を異にする茶室群を、見る者の思考の中で同一線上に配置するためには、個々の建築物から離れたマクロ的視点が必要だ、と考えたからである。黒川雅之氏によってデザインされた空間はその視点を見事に実現したものだったが、もともと、このようなコンセプトは、新しいものではなく、利休が考案した「数寄屋」の概念の中にすでに語り尽くされている。
しかし「然」の空間を前にして改めて痛感したことは、「数寄屋」がもつ許容度であり、包容力だった。「自由」という表現に短絡に置き換えてよいのかどうか分からないが、偶発的な邂逅がおこす自由な集散や分裂の総体を美的に統一する、「バウハウス」さえ超越する「編集」作業的建築作法に改めて驚かされたのである。そして、時空的に近代さえ一個のエレメント、もしくは「記憶」として超越し、包含してしまう利休の発想は、脱近代の象徴ともなった「多様性」という名の混乱を抱える現代にこそ有効ではないか、と考えるようになった。
そんな疑問を抱えながら利休の「数寄屋」に佇むと、縁取りをされた無形の空間から蜃気楼のように一つの仮設が湧いてくる。それは、「配置」という実験についての可能性である。
茶道具や軸、花に与えられた完全な自由。その幾つもの「自由」が共存し、しかも一定の緊張感の中で互いに連携する。それは、まるで私たちを包む自然そのものである。「数寄屋」は「都市」という人工環境の中で人工的に「自然」を生み出す方法なのではないだろうか。そのためにここでは造形的な統一を決して求めない、その反対に、採用される異なったモチーフやディテールは個々に強烈な自己主張を展開する。結果、統一的な様式は崩壊し、各部分の個性は残しながらも全体的には完全な「無」が形成されるのである。それは決して、力ない「虚無」ではなく、強烈な個性の充満に支えれる建設的な「無」なのだ。
この「無」という意識的な緊張をもつ自然の中で、亭主はその内容を選択し、それぞれの関連を探りながら配置する。その行為はライプニッツの言う自然界の「予定調和」を証明し、現実化するものなのである。
「京都未来空間美術館・数寄の都」は利休という思想家が残した空間概念を都市の再生と創生に適用するためのプログラムである。
今、人間が造った最大の人工環境である「都市」は統一的な様式を求めるモダニズムの中でずたずたに分裂されてしまっている。それは他者の様式を認めず、その消去に専念するという、その近代的作法の過程で「都市」のさまざまな「記憶」や積み重ねられた機能が中断されてしまっているからである。「都市」という名の小自然の中で構築された「配置」は、もはや、その痕跡さえも不確かな状況にあえいでいるのだ。
日本の都市も例外ではない。伝統的な美学と都市計画によって構築されている中心部と各建築物の機能を最優先とし、まとまりのない、醜悪で漠然とした集合体を構成している周辺部との景観的、また機能的な落差に、その問題は明確に現われている。人間が自己を取り巻く環境に「美」をもとめる存在とするならば、現在の都市環境は、その「生」すら阻害するものとなっているのである。
日本でも文化施設の整備やパブリック・アートの問題がようやく実行される段階にきているが、私たちが早急に手掛けなければならないのは、何よりも「記憶」というディテールと本来の「機能」を消失した都市構造の文化的再配置であり、乱立する部分の連携による美的な再統合なのである。
我が国の都市文化の原点、京都も例外ではない。中心部はともかく周辺との境界線は近代主義の生み出した無個性な個別主義と概念の欠落に犯されてしまっている。
「数寄の都」は、日本の都市の象徴ともいえる京都を舞台にした、「近代化された」都市が一様に抱える問題の解決への試みである。「数寄屋」という異なった様式に内包された「時間」と「空間」の「差異」を超越する建築概念を、都市構成に適用し、自由で、美的な統一感をもつ都市の再生と発展の可能性をさぐる、それは「二畳台目」という最も小さなユニットで語られた、人工自然の法則を、数百年の時を経て、それを育んだ都に捧げる賛歌以外の何ものでもない。
企画主旨
「数寄の都」は「近代化された」都市が抱える問題の解決への試みである。「数寄の家造り」という「時間」と「空間」の差異を超越する建築概念を、都市を対象に発展させ、自由で、美的な統一感をもつ都市の可能性をさぐる。
会期
平成6年9月1日~9月13日
会場
高島屋京都店グランドホール(7階)
京都市下京区四条河原町西入真町52番地
プロデューサー
伊住政和
キュレーター
伊東順二
企画監修
田中一光 筒井鉱一
中村宗哲 馬場璋造
空間構成
隈研吾 竹山聖
京都未来空間出品
アドリアン・シナ 北川原温
隈研吾 竹山聖 若林広幸
茶室道具組
小川知子(喜多俊之茶室)
奥田瑛二(田中一光茶室)
伊住政和(中村宗哲茶室)
加藤タキ(黒川雅之茶室)
杉浦日向子(杉本貴志茶室)
環境音楽
三枝成彰
照 明
藤本晴美
映像作品出品
スタン・アレン
レベウス・ウッズ
大江匡
レム・コールハース
高松伸
ダグラス・ダーデン
コープ・ヒンメルブラウ
ノーマン・フォスター
マッシミリアノ・フクサス
マイケル・ブラックウッド
スティーブン・ホール
エンリック・ミラレス
トム・メイン
ジェシー・ライザ+ウメモト
ハニ・ラシッド
ダニエル・リベスキンド
グレッグ・リン
グラフィックデザイン
田中一光デザイン室
制作
(株)茶美会文化研究所
主催
財団法人平安建都1200年記念協会
株式会社 茶美会文化研究所
京都新聞社