基盤の目状の都市の成立は遠く古代ペルシアに遡るらしい。世界中の多くの地域がまだ石器時代の生活をしていた頃、だれが何のために整然と都市をつくろうとしたのか、どんな人物が最初に設計したのか、全く分からないが、曲線に覆われた自然界の中に忽然と現れた直線都市に人々は何を感じたのだろうか。おそらく、超自然的な力、神の存在を都市に見たに違いない。
その基盤の目からシルクロードを東上し、中国を経由して、最後の基盤の目である平安京に到達したのは8世紀のことだった。それ以後古代的な構造をもった基盤の目状の都市はつくられてはいない。だから、平安京は最も完成された姿を誇っていたはずだった。というのも、長安の正確な縮小モデルを目指したにもかかわらず、どうしても完成できなかった部分があったからだ。城壁である。羅生門は違ったものの、結局城壁は造らずしまいだった。その理由はいろいろあったことだろう。とりわけ、騎馬民族のいない日本では必要もなかっただろうし、山に囲まれるという地形においては外部からの侵略もある程度予防できる、という見解が幅を利かせていたに違いない。また、自然信仰の強い日本人にとっては自然と隔絶する都市作りは自らの性にあわなかったのかもしれない。
しかし、城壁が存在しなかったことが戦乱に巻き込まれる機会をふやしてしまったことも否めない。応仁の乱をはじめ京の大部分を焦土と化した戦いが、かつての「都市美」を消去してしまったことを思えば、残念なことではある。それでも京の人達は堺のように城壁を造ることはしなかった。それゆえ、京とは常に開かれた都市であり続けたのである。それは、この内陸部に存在する都市にとって、交通というメディアこそが生命の源泉であったことを物語っている。それは権力の発信というものから情報と人間の流通にこの都市のインフラがシフトしていたことを物語っている。
京都の都市構造の歴史的推移を見るとき、もう一つの興味深い現象は東西南北に伸びた基盤の目状の基本構造を無視するかのように、実質的な生活圏が東北に推移していくことである。それは、自然的要素に原因がある。
平安京が建設される前、山背(やましろ)の国を支配していたのは渡来人である秦一族だった。彼らの祖先が秦朝の貴族で治水工事の専門家だったことからも分かるように、この盆地はもともとひどい湿地帯だったのである。建設後も特に右京は湿地が多く、貴族たちの居住地域は東北の地盤のよい方へ展開していった。その変遷の様を図で追うとまるでコンピュータのグリットの上を這うアメーバーのように有機的な印象を与えるのである。ともかく、多湿のために人は水から逃れるように移動することを余儀なくされるが、その代わり、京にはその中心といえる神泉苑をはじめとして涌き水が豊富であり、鴨川とあわせてこの山間の都市に水の都の風情を漂わせることができたのである。
このように、京都にはいくつかの重層的な構造が潜んでいる。そして、その幾つかは直線と曲線のように対立する関係であるように見えて、実際はその相関関係の成立によって、却って都市のエネルギーを生産しているといってよい。しかし、そこには幾つかの人為的な仕掛けが作用していることも見逃せない事実である。
まず一つは寺社を町の外れに位置付け、内部には設けなかったこと。現在は存在しているものの、宗教都市になり過ぎた平安京の反省から、またより大きな宗教的視点と防衛の考えから寺は外部に分散され、都市のデッドスペースが激減し、商業都市としての流通が活性化された。また、グリットの区画内にも坪庭を多用し、情報の流通を促進し、後に「町」という単位を発生させる重要な要素となった。スペースの活用の妙は平安京の特徴である。それは長安と違い、限りある空間を有効に使おうとした古代人の知恵からうまれたものである。文化の重層性を当初から求めていたことも注目しなければならない特徴である。言わば、古代人たちはここに中国、唐を再現しようとしたのであり、万葉の里を造ろうとしたわけではない。その点では中国系の豪族が支配していたことは選択において強く作用したであろうし、彼らが遣唐使たちをその配下に従える新興貴族藤原氏と手を組んで誘致に向けて積極的に働きかけ、平安時代当初重要な動きをしたことの理由も容易に理解できる。
時は遣唐使によってもたらされた、渡来文化万能の時代である。和風文化など消去したいと思うくらいの熱狂だったことは創造に難しくない。宗教も最新の密教、詩も漢詩で書く時代である。どこか明治以降の日本に酷似しているが、その擬似中国が極めて和的な風情をもつ山背の里に展開されたのである。現在の風情で言えば、お寺の上に高速道路が通っているようなものである。平安京の人々は初めから平城京時代よりもっと過激にこの重層性の中に生きることを求めたのである。環境的な問題があったとはいえ、居住地が自然の四季をより身近に感じやすい東北に曲線的に移動したのも「古今集」の成立といった和風趣味の再燃といった事態に無関係ではなかったに違いない。おそらくこの点が手本とした長安と決定的に異なる部分であるだろう。つまり外来の文化を都市の中に封じ込め自己の文化内に編集しようとした長安に比べて、平安京は二つの極の重層性から生み出される緊張感の中に生きようとしたのである。意識的な植民地の事情と言えばそれまでだが、それを楽しむ感覚が存在していたこともまた認めなければならない。
京とはこの重層性の中を振り子のように揺れることで自己を活性化させて来た、と言ったら言いすぎだろうか。しかし、歴史的に見ても京都が輝いていた時代は常に新しい要素が勃興し、その衝撃で振り子がどちらかに揺れる時なのである。空海、最澄による密教の到来、その後の唐風分化、その反動の古今、新古今時代、武家社会の成立、公家たちがそれに抵抗した南北朝鮮の文化、禅の渡来、茶の流行等、いつもエキエントリックな形でこの都市の文化は表出し、そしてそのすべてを飲み込んでいく。
この栄光が今の京都にあるだろうか。いたずらな市街地の近代化のために情報交換の場所だった坪庭は減少し、個別な建築の自己主張のために基盤の目の存在さえ希薄になっている。かつての京都の城塞を代行していた五山は中腹まで醜悪な建物な開発に犯されて、いにしえに表現していた精神性を伝える手だても失っている。主役の一人だった水も個性を喪失し、温泉街の谷間を流れる川となんら変わることがない。そして、その文化の核心を担っていた重要性は日本のすべての都市を覆っている同質なモダニズムと停止した伝統にか細くすり変わってしまっている。ただ、人々が生活の中にわずかに保持している昔の記憶だけがこの都市の生命を持続しているのである。このシルクロードを席巻した輝きに満ち、アジアの最も洗練された文化の発信者だった都市を救済することは、その光を受けながらも、今はただその経済と言う不確かな文明だけに生命を負うている日本の都市のすべてのを救済することである。荒廃したときでさえ、美しい発見者だった記憶を今、取り戻さなければならない。それは私たちの祖国の将来さえ決定する行為なのである。
そのためには先ず、重層する文化を再び築き上げることである。非常に複雑な構造をもてばもつほどこの都市は輝くのだから。
その京都再生のプログラムに関して行った提案が「数寄の都」である。
「数寄の都」は一言で言えば、千利休が確立した「数奇屋」の概念を都市計画に応用し、京都が(もしくは日本の都市のすべてが)失いつつあるエネルギーを取り戻そう、という提案である。
「数奇屋造り」、茶室に代表されるこの建築手法ははっきりとした定義がない、それを応用しようというのも乱暴な話だが、定義づけることは困難ながら幾つかの独創的な特徴は指摘することができる。
都市計画という観点から見て、抽出すべきと思われる要素でます注目したいのは、特に利休が限定した茶室の構造に顕著であるのだが、「交通」もしくは「情報「」の交換の方向を明確にするという点である。ご存知のように、茶室においては客と亭主は同じ出口と入り口を使用しないが。彼らが接点をもつのは「通い畳」という不思議なヴォイド(空白)な空間で、ここでさまざまな情報が交換される。このことは情報の交換に関しての都市作法について重要な示唆を含んでいる。
都市においてその活力を生み出すのは情報の吸収と消化、そして発信という極めて有機的な作業である。だからこそ、古代から中世にかけての都市設計家たちは都市の出入り口のデザインに関して細心の注意を払っている。「羅城門」はその名残だったのだろうが、城塞は無くとも、周囲の山々がそれを代行していた平安京でもその作業は厳格に守られていた。東洋の古代都市はもちろん、西洋でも同様でアンリ・ルソーが税管吏を務めていた「サン・ドニ門」は今でもその痕跡を伝えている。しかし、近代における都市交通の多様化、流通メディアの発達は、この都市における情報の方向性を喪失してしまった。つまり、「情報」という点において都市はもはや存在していない、とさえ言えるのである。そこには絶え間無い、「通過」があるだけである。その意味において、イスラエルのアーティスト、ダニ・カラヴァンがセルジー・ポントワーズで行っている都市計画は非常に重要な試みである。パリからセルジーまでの直線的な銅線を潜在化させ、そのラインの中にすめてのアクセスと、文化施設を配置しようという構想は新興都市の開発というよりも、それを通じてパリという都市を再生させる試みと受け入れた、ということは彼らが彼ら自身の「都市」を喪失しつつあるという、危機感の現れ以外のなにものでもない。私たちは、今こそ、数奇屋の交通に隠された情報の流通の仕組みを解読し、未来の都市再生計画に適用しなければならない。今回参加した若林広幸、竹山聖のプレゼンテーションはまさに数奇屋のこの部分の構造を拡大したものである。また隈研吾のプレゼンテーションも「庭」というメディアに隠された、その情報交換のインタラクティヴ性に注目し、「動く庭」として象徴化した作品である。
都市計画という観点から見て、抽出すべきと思われる要素でます注目したいのは、特に利休が限定した茶室の構造に顕著であるのだが、「交通」もしくは「情報「」の交換の方向を明確にするという点である。ご存知のように、茶室においては客と亭主は同じ出口と入り口を使用しないが。彼らが接点をもつのは「通い畳」という不思議なヴォイド(空白)な空間で、ここでさまざまな情報が交換される。このことは情報の交換に関しての都市作法について重要な示唆を含んでいる。
都市においてその活力を生み出すのは情報の吸収と消化、そして発信という極めて有機的な作業である。だからこそ、古代から中世にかけての都市設計家たちは都市の出入り口のデザインに関して細心の注意を払っている。「羅城門」はその名残だったのだろうが、城塞は無くとも、周囲の山々がそれを代行していた平安京でもその作業は厳格に守られていた。東洋の古代都市はもちろん、西洋でも同様でアンリ・ルソーが税管吏を務めていた「サン・ドニ門」は今でもその痕跡を伝えている。しかし、近代における都市交通の多様化、流通メディアの発達は、この都市における情報の方向性を喪失してしまった。つまり、「情報」という点において都市はもはや存在していない、とさえ言えるのである。そこには絶え間無い、「通過」があるだけである。その意味において、イスラエルのアーティスト、ダニ・カラヴァンがセルジー・ポントワーズで行っている都市計画は非常に重要な試みである。パリからセルジーまでの直線的な銅線を潜在化させ、そのラインの中にすめてのアクセスと、文化施設を配置しようという構想は新興都市の開発というよりも、それを通じてパリという都市を再生させる試みと受け入れた、ということは彼らが彼ら自身の「都市」を喪失しつつあるという、危機感の現れ以外のなにものでもない。私たちは、今こそ、数奇屋の交通に隠された情報の流通の仕組みを解読し、未来の都市再生計画に適用しなければならない。今回参加した若林広幸、竹山聖のプレゼンテーションはまさに数奇屋のこの部分の構造を拡大したものである。また隈研吾のプレゼンテーションも「庭」というメディアに隠された、その情報交換のインタラクティヴ性に注目し、「動く庭」として象徴化した作品である。
数奇屋において次に注目したいのは、その「通い畳」におけるVOIDな空間の重視、という部分である。近代主義において私たちは情報交換や都市エネルギーの表現空間を形態化しようという不毛な努力を続けて来た。コンサート・ホールの巨大化がその代表的な例であるだろうし、公民館、もしくは市場を建築化したデパートもそれに当てはめることができるだろう。しかし、かつての京都の町や池や坪庭が果たしていた役割のようにVOIDな空間が生活ゾーンの中に存在することの方がより高密で重層的な情報交換を可能にすることを、この「通い畳」は訴えている。この小さな畳は都市に置き換えれば、「庭」というメディアにおいて市民が手にすることができる無限なインタラクティヴ・ゾーンなのである。
北川原温が抽象的なプレゼンテーションで表現しようとしているのはこの「通い畳」に似た、いにしえの京都のVOIDなスペースのマップである。この一見ランダムに点在する、モダニズム風に表現すれば非有効空間こそ実は都市そのものを構築している部分であることを彼は主張する。そして、形態のない文化というものの実費はここで生み出されて来たのである。しかし、「神泉苑」の縮小に見られるように、モダニズムは物質的な非効率性を認めはしない。明治以降、その物質性に見をゆだねてしまった日本の都市はその存在の源泉すら手放そうとしているのである。京都は今一度、自らが生み出した多用なVOIDな空間の手法を思いださなければならない。
最後に指定したい数奇屋の特徴的な構造は異なった装飾や、素材のディテールの重層的な集合である。
数奇屋においては様式的な統一は徹底的に拒否される。重要なのは部分的な形であり、また花や軸、さらに言えば光り、季節、風といった可変的で流動的な要素である。つまり、その完璧に仕上げられた部分の集合に「スクリーニング」という行為と意味も含んだ不確定要素を持ち込むことで、部分の自立を尊重したゆるやかな集合状態が展開されるのである。このことは都市の構造を考える場合、非常に興味深いものである。というのも、様式的に統一しようとするあまり、混乱を招いてしまう、モダニズム下の都市構築作法とは正反対の集合に関する提案が含まれているからである。自立した各部分の第三者を媒介にした相関関係によって構築される全体とは、かつて平安京が最も美しかったときに見られた特徴を暗示してはいあにだろうか。重層的な都市文化の可能性を提示してはいないだろうか。茶室に入るたびに、私は遠い昔の京の姿を夢見るのである。そして今回参加した建築家たちは、その夢の中で再び自立した各部分を担うものたちなのである。
数奇屋の中に都市の理想形のひな型を見る、という今回の試みは、極めて粗暴な試みなのかもしれない。むしろ、豊かな「無」にむかって無限に縮小していくものであるとすれば、この世界建築史上もっとも小さな規模の建築作法に、私たちがかつて持ち得た文化の秘密が隠されていたとしても不思議ではない。「新しい」、「作り出す」という表現に伴う神話が崩壊しつつある今、私発ちがさまざまな記憶に自らの未来を見ることもまた必要なことではないだろうか。