第1回金沢・世界工芸トリエンナーレ

「第1回金沢・世界工芸トリエンナーレ」

http://www.kogei.bp-musashi.jp/artists/index.html テーマ:工芸的ネットワーキング 会期:2010年5月8日~6月20日会場 会場:金沢リファーレ2F・金沢21世紀美術館 市民ギャラリーA ディレクター:秋元雄史 キュレーター:伊東順二、チャン・チンユン(張清淵)、金子賢治、大樋年雄、秋元雄史 伊東選出作家:青木千絵・橋本夕紀夫・今泉今右衛門・加藤良将・小曽川瑠那・隈研吾・中村信喬・釋永陽・城谷耕生・植埜貴子

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10の守破離

「国粋主義者!」という声が上がった。1990年のことである。あるシンポジウムで故田中一光氏、裏千家の故伊住宗匠と準備していた、現代デザインとアートで茶の湯の現代化を志す「茶美会」の内容を私が説明していた時のことである。現代美術に伝統文化など持ち込むな、ということだろうか。現在から見れば、不思議な見方だが、近代主義的現代芸術観が大勢を占めていた頃では仕方がなかったのかもしれない。しかし、残念ながらそのような批判は過激さを増して私が日本館コミッショナーを務めた1995年の第46回ベネチアビエンナーレ「数寄展」まで続いたのである。 明治まで遡ることになるが、日本における美術状況は現在に至るまで伝統文化と西洋的近代主義に引き裂かれている、といっても過言ではない。そして、「現代」という時間軸を背負えば背負うほど西洋化を志向することを義務付けられてもきた。私たちは長い間頭の中で西洋美術史を自らの美術史と信じて制作をつづけてきた、と言ってもよい。それは「芸術」という概念においても同様である。ギリシャ哲学に起因するルネサンス以降の芸術概念をいとも安直に伝統的美学にすり替えたのである。「地域性」から脱却し、人類に普遍的な哲学を造形表現するという意味では、その模倣は正しかったのかもしれないが、自然環境や歴史の違いはその確信において、各民族に固有な感性の中に亀裂を生じさせる。‘80年代に世界各地で沸き起こった「ポストモダニズム」は日本だけでなく、各民族文化において盲目的な「普遍信仰」が引き起こす亀裂に危機感が生じたことを意味している。 「守破離」という茶の湯の言葉がある。 「規矩作法守りつくして破るとも離るるとても本を忘るな」 近代産業革命以降、加速度的に消失する地理的時間的距離が、固有の文化を見失わせ、統一的な美学を模索したとは言え、各地域文化は決して同一化することはできなかった。その問題の解決に対する示唆にこれほどふさわしい表現はないだろう。本を忘れた文化はが存在理由をなくしてしまうことと同様に時代に合わせて変化することもまた必然のことである。 私たちが培ってきた「美」である「工芸」は、今、この亀裂に悩んでいる。普遍的に理解される「美」となるために、「芸術」化していくのか、「地域文化」であり続けるために継承しながら独自の道を進み、新しい「価値」を創造していくのか、まだその先は見えない。 おそらく、その糸口は「継承」、「革新」、「逸脱」、「翻訳」というようなキーワードの中にあるのではないか、と思う。ここに選出した10人の作家はジャンルや方法は違えども、そのような視点で私たちがこの土地に生み出した文化の価値を再び世界に問おうとする人々である。そして、そのような姿勢こそが、それぞれの地域文化が自立しながら結ばれる、多様性を持つ文化的統一ビジョンを地球にもたらすことになると信じている。 「伊東さん、このような試みが現代美術の閉塞的な状況を打ち破るのかもしれませんね。」 故田中一光氏が茶美会の準備をする中、こう漏らしたことを今でもはっきりと覚えている。

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