都市の思い出
よく知られているように、特に室町時代後期以降の日本の文化は「町人」という階級を中心に形成されてきた。「歌舞伎」、「浮世絵」、「浄瑠璃」、「草紙」等など、世界に誇れる日本文化は、彼らとその交流の中から生まれてきたものである。街区も同様である。江戸の浅草を始め、町人文化の醸成の現場がそのまま都市を代表する「顔」になったのである。そして、そこには常に、芝居小屋や版元、大道芸などの文化装置が組み込まれていたのである。
明治期以降、徹底的な封建制時代の都市構造の組み替えが実行されても、「大正デモクラシー」に象徴されるように、その伝統は綿綿と受け継がれてきたのである。
しかし、第二次世界大戦で主要地方都市の徹底的な破壊とその後の画一的な都市建設がこのような街の表情と伝統を消去してしまったことはまことに残念な事実である。都市の個性の抹殺がどのような結果を生むか、そのことについて改めて言うこともないほど現実は深刻化している。すなわち、構造と性格が類似していると、都市に対する評価基準は非常に短絡的になってしまう。つまり、利便性と経済効果といういくつかの合理的な基準のみで環境が評価され、居住する都市が選択されるのである。その結果、大都市はますます巨大化し、中小都市は、自動車の爆発的な普及の後、特に中心部において過疎に悩み始めるようになったのである。そして、変化した住民構造と都市構造は街の伝統の欠落を生み、「ここに住む」という動機を個人の内部で希薄なものとしている。
いわば、思い出のない街に思い出を持たない人が住んでいるという状況が現実化しているのである。
日本ばかりではない。ヴェニスのような拡大しようもない特殊な都市を除いて、世界中の都市が第二次世界大戦以降の高度成長期と世界的な近代化の中で、超合理的な都市作りがもたらした弊害に悩んでいる。個性に満ちていると思われるパリですら、個性の回復のために80年代シラク市長の就任以来、市内の景観回復に挑み、それに加えてルーブル宮から郊外までの直線的な都市計画の実施によって、「顔」の際整備を行ったのである。また、郊外に移転した市場などの市民の往来が激しかった地域には、なるべく美術館や文化施設を配備し、公共的な記憶の維持に腐心している。
日本においても、ふるさと創生事業の実施以来、都市の記憶回復運動は高まっているが、景観的なものがほとんどで、市民の文化や導線の再生にまでは至っていないのが実状である。しかし、実際は、生活と文化の記憶の回復と、その再活性化こそが重要なのである。
北関東を代表する文化都市前橋に、ぜひ日本の文化的将来を左右するような事業をぜひ実行していただきたいと思う次第である。
広瀬川河畔の可能性と実状
1995年の日本文化デザイン会議群馬において、議長を務めた私が、「朝楽」という初めての試みを広瀬川流域で決行したのは、文化的な「顔」と「思い出」を作るという意識を高揚したいと思ったことと、弁天通につながる広瀬川流域に、その高い可能性を見たからである。
それにはいくつかの具体的要因がある。ここに、いくつかあげてみよう。
1. 市一番の繁華街である弁天通に直結しており、市内の導線構造に違和感がなく、街区を設定できる。
2. 萩原朔太郎の詩にも詠まれるなど歴史的背景がある。
3. 急流を思わせるその流れ、豊富な水量など、広瀬川自体の景観性が高い。
4. すでに一部整備が完了しており、次期事業を設定しやすい。
5. 河畔に前橋文学館が開設されており、文化的イメージが確立している。
6. 植栽が十分に成長し、市民に安らぎを与えうる表情を持っている。
7. 昨年、「広瀬川詠の道」と命名されたようにプロムナードを形成するために理想的な川幅と歩行可能な
流域の長さを持っている。
8. 前橋市のどこからでもアクセスしやすい場所である。
9. 河川とともに歩んできた前橋の記憶を凝縮しやすい。
このような条件を兼ね備えている広瀬川河畔であるが、現在の状況のままでは、文化的中心となることも、市民の「思い出」作りの現場となることも難しい環境である。そればかりか、現状が持続すれば、弁天通商店街とも良い相互関係も構築できず、弁天通とあわせて再活性化はますます難しくなるだろう。その理由は次のようなものである。
1. 河畔に人の流れを生む求心力のある施設が存在していない。文学館に可能性はあるが施設が小さすぎて
収容力と内容の形成に限界がある。大中規模のイベントを企画することも不可能である。
2. 河畔の植栽が過度に成長し、また密度も濃いため、特定の季節にしか散策する喜びが生まれない。
また日照も不足気味である。
3. 上記と同様の理由で、広瀬川の特徴ある流れを、河畔の景観に結び付けることができない。
4. 魅力ある水との接点を持つポイントがないため、もしくは、遮断されているため、前橋市民の原風景に
つながることができないと同時に、思い出効果が希薄になっている。
5. 飲食を含めた景観を利用する商業施設が整備されていないため、河畔来訪へのモチベーションが高められない。
6. 家族やグループ用の見通しの良い広い場所がない。特に、子供にとって興味ある部分を創出できていない。
7. 流域の施設に統一感が欠如し、相乗効果を生みにくくなっている。
8. 河畔の環境整備だけでなく、周囲の景観整備も行う必要がある。
このような、点に留意し、さらに整備を実行すれば、広瀬川は文化都市前橋の「顔」の一つになる可能性を十分に持っている。また、経済的に落ち込みが激しい弁天通商店街にも、新たな「人流」がもたらす効果は計り知れないものがあると思われる。さらにマクロ的な視点を取れば、都市の記憶に基づいた魅力的な文化街区の創出は前橋市全体のイメージを高め、「前橋に住む」というモチベーションを高めるに違いない。それゆえ、開発および整備は最新の注意をもって実施されなければならない。ここでそのポイントをいくつかあげてみよう。
1. 広瀬川河畔に市民の情報摂取と交流のための中核文化施設を建設する。勢多会館跡地が
弁天通との結合も含めてもっとも理想的な立地だと思われる。
2. 中核文化施設は多面的に地域に貢献することができる、カルチュアー・コンプレックス形式が望ましく、
詩の道という地域性を考慮して、読書室および多目的ホールを完備するものとする。
それは前橋の伝統を伝えるとともに、未来の前橋を構築する先端的な情報も同時に提供しなければならない。
3. 中核文化施設は景観性を考えて、できるだけ低層建築とし、透明性を重視する。
4. 地域全体の巡回性を構築するために、文学館の拡張も実行する必要がある。
対岸駐車場建設地にアネックスを建設することが立地的にも望ましい。その場合、
隣接する公園部分に新たな駐車場を建設する。
5. 文化性と記憶制をより明確にするために、前橋文花のシンボルである萩原朔太郎生家を
この地域に移築する。同時に、敷島公園バラ園と呼応するローズガーデンを、文学館アネックスに併設する。
6. 河畔をより、親しみやすく、また、表情豊かなものとするために、河畔中心部分、文学館から
中核施設に至るまでの部分にボードウォークを設ける。
7. 植栽を整理し、日照豊かな遊歩公園を演出する。
8. 仮説制の商業施設を組み込んで、市民の交流を促進させる。その場合、弁天通の商業機能に
文化性を加味し、河畔部分に移動、移設することが必要であり、またそうすることによって、
弁天通の活性化も達しされるものと思われる。
9. 地域を活性化させる定期的なイベントを(例 広瀬川文化祭)開催する。その用地として河畔のみならず、
アーケード、および、橋梁部分も使用し、街区全体の文化性を創出する。
このような必要条件を前提として、私たちは、ここに広瀬川河畔町並み整備構想として、「思い出の都市」構想を提案するものである。この構想はただ開発や建設を目的とするものではなく、市民の心の奥深くまでにも、故郷前橋の文化をはっきりと刻むためのものであると信じている。